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まちがい

 私は突如、睡魔に襲われた。鋭い光が体を通り抜けたような感覚の後に、思わず両膝をついてしまいそうになった。
 現在午後10時、パラパラと小雨が降っている。この2、3日はずっとこの天気だ。
 この暗く重い天気の下でも、あの殺人的なまでに詰め込まれた満員電車に揺られなければならなかった。そして部屋に帰れば、会社でとは違う、別の仕事をしなければならない。あともう少しの努力で、小説家としての地位を手に入れられるのだから。

 「眠っている暇なんてないんだ。」

 私は考えをわざと口にして、眠気を覚まそうとした。しかし数歩歩くと、今度は強烈なめまいを感じた。

 「だめだ、だめだ。早く帰らないと。」

 私は立ち止まり、傘を持っていない方の手で目をこする。そして大きく息を吸いこみ、再び歩き始めた。
 数歩歩いては立ち止まり、呼吸を整えて再び歩き始める。私はそんな作業を何回か繰り返した。
 確かに、このところは1日に3時間くらいしか眠っていない。昨日までは、毎日充実していたせいもあってそれほど眠くなることもなかった。疲れが溜まってきたせいなのだろうか。それにしても、なぜ今日だけ突然に?

 「しっかりしろ、根性なし。」

 自分を叱り付けつつ歩を進める。叱るといっても、声を出しているわけではない。いや、本当は小さく声を出そうとしたが、弱々しい吐息にしかならなかったのだ。
 今度は怒鳴るくらいの強さで、もう一度言ってみた。すると、ささやくよりもかすかに大きな声しか出なかった。思ったよりも疲れが溜まっているらしい。
 再びめまいを感じて立ち止まる。意識が一瞬暗転した後、私は自分が片膝をついているのに気付いた。

 いつのまに……

 無言でつぶやいて立ち上がる。立ちくらみを起こしたが、今度は意識が暗転することもなく再び歩き始めることができた。
 足が重い。まるで金でできているかのようだ。一歩動かすたびに脂汗をかく、足そのものが削れ擦り減っていくかのような感覚を覚える。だが、もう少しで寮にたどり着く。たとえ力尽きて眠ってしまうとしても、雨降る中で眠るわけには行かないのだ。
 歩くこと。ただそれだけに全神経を集中させる。目がかすみ、周りの景色すらも見えなくなる。気付いてみれば、手に握っていたはずの傘はいつのまにかなくなっていた。
 建物の明かりが目に飛び込んでくる。その光を目印に最後の坂道を登る。普段は何気なく通る道が、果てしなく遠く思える。
 一歩。また一歩。まるで農耕馬のような足取りで歩む。体にかかった雨と、汗との区別はもはやつかなくなっている。
 坂道を登りきった瞬間、うれしくて叫び出しそうになった。しかし、声は出ない。

 仕方ない、今日はもう寝よう。

 心の中でつぶやき、玄関から寮の中に入る。
 今までの苦労が思い出される。会社で居眠りして上司に怒鳴られたこと、入選者として初めて名前が雑誌に載ったときのこと、。
 部屋への階段に足を乗せかけたとき、得体の知れない何かとてつもなく冷たいものが光よりも早く駆け抜けた気がした。雨のせいか、全身が氷のように冷たくなっている。そんな中、背中だけが熱い。
 手を回して触れてみると、何やら生暖かい、ぬめぬめとした感触があった。
 まばたきを1つすると、廊下の天井の蛍光灯が見えた。
 気付かぬうちに倒れていたようだ。あわてて起き上がろうとするが、小人の国に流れ着いたガリバーのように、手も足も、指一本たりとも動かない。

 そういえば、さっき手に触れたものは何だったのだろう。

 首を動かすことさえもできず、視線だけを右手に集中させた。それは朱に染まっている。

 これは……血か!?

 力尽き、目を閉じる。さっきまで感じていた凍り付くような寒気も、しとしとと降る秋雨の音も、ゆっくりと失われていく。私は意識だけの存在になると、ふとあることを思い出した。

 最近、この辺りに通り魔が出没するという噂があった。ただ聞き流していたが、もしそうであれば、私が襲われたのは睡魔ではなく。

 とんでもない「魔」違いだ。

 私の意識は虚無の中へと消えていき、二度と戻ることはなかった。

[最終更新日 2015.7.15]