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神隠し
1
クラスメイトの三石が行方不明になった。彼とは親しいわけではなかったが、快活な男であったことだけは印象に残っている。
最初はただの無断欠席だと思われていたのだが、彼の両親が捜索願いを出したという噂はじわじわと広まっていき、やがて校内中で騒がれ始めた。最悪自殺もありうるということで捜査が進められていたようだったが、全く手がかりは得られず、そのうちあきらめられることになりそうだった。
新聞にそのニュースが載るようになったのは、彼が姿を消してから一週間ほど後のことであった。
『神隠しが頻発』
と、社会面に小さな見出しで書かれた記事によると、三石のようになんの前触れもなくいなくなる人間が全国各地で急増しているのだという。
「お前も気をつけなさいよ。」
と深刻そうに言う母に、
「神隠しだったら、気をつけてもどうにもならないよ。」
と言い捨てて学校に向かう。
「そうじゃなくて、殺人事件とかだったら……」
呼び止める母の声を背にしつつ、遅刻しそうだったのでそのまま逃げるように家を出た。
今日から夏休みなのだが、学校で夏期講習をするのでそんなものはないも同然だった。高校2年生にもなると、予備校に通う人以外はほとんど全員が参加する。だから、雰囲気も普段とあまり変わらない。
何気なく1日が過ぎていく。照り付ける日差しの中、ただ黙々と講義を受ける。退屈でつい逃げ出したくなる、ここから、受験から。ひょっとしたらいなくなったあいつは幸せだったのかもしれないなんて、不遜なことさえ考えてしまう。
家に帰ってくると、母はいなかった。また鍵をかけずに出かけてしまったのだろうと、自分の部屋に戻って復習をすることにした。しかし夕飯時になっても帰ってこない。
新聞の小さな見出しが頭を過ぎる。
何か母が残していったものはないかと、遅くまで出かけるというメモでもないだろうかと、部屋中を必死に探し始める。
探しているうちに父が戻ってきて、
「母さんはどうした?」
と、のんきに聞いてきた。
「どこに行ったのか分からないんだ。」
喉をついて出た声は、思いもよらず大きな声になっていた。
「分からないって、どういう事なんだ?」
首をかしげつつも、本気にしていないかのように間延びする声で問い返す。
「何か分かっていたら分からないなんて言わないだろ。俺が帰ってきたら鍵は開いたままで、どこにもいなかったんだよ。最近急に行方不明になる人が増えているって言うし、どうして……」
機関銃のように早口で怒鳴りつけるが、俺は自分の言葉をどこか遠くから聞いているように思えた。
「とりあえず今日は寝なさい。明日までに帰ってこなかったら警察とかに連絡してみるから。」
この後何か口論したような気もする。が、ぜんぜん覚えていないということは、すぐにそのまま眠ってしまったのだろう。復習をするのを忘れていたが、起きていてもきっとそんなことをする気分にはなれなかったに違いない。
朝起きたとき、父は真っ赤な目を半開きにしたままコーヒーをすすっていた。どうやら徹夜していたようだった。
「捜索願いは、もう1日待ってみようと思うんだ。」
普段すると母に叱られるからできない、新聞を読みながらトーストをかじる、という行為をしながら父は言った。
「どうしてさ、父さん。母さんが心配じゃないのか?」
父は何も言わず、右の頬を平手打してきた。涙ぐみながらにらみつける。
「おまえは、そんなに母さんを行方不明にしたいのか? 捜索願いだなんて、本当にどこかに消えてしまったみたいじゃないか。そうさ、すぐに戻ってくるよ。」
自分に言い聞かせるかのように、力なく引きつった笑い声を立てながら言った。
「そうだよね、きっと。」
俺も同じように笑った。
講習に出ても、今日は先生の話も耳に入らず、ただぼんやりとノートを取っていた。
どうして、いなくなってしまったのだろう。
2
「なあ、聞いたか? 古典の先生、今日無断欠席してるんだってさ。」
その声に振り返ると、周りは既に席を立っている者もいることに気付いた。いつのまにか講義が終わっていたのだ。
「ひょっとしたらさ、今はやりの『神隠し』じゃないのかって思うんだ。」
腐れ縁の椎名の声に、俺は無言で席を立つ。
「おい、どうしたんだ。」
「二度とその話はするな。」
「なんで怒るんだよ。教えてくれよ。おれたち中学のときからの親友じゃないか。」
「だったら傷ついているときくらいは、1人にしてくれ。」
「傷ついているって?」
しまった。
「まあ、聞かないでおいてやるよ。だいたい見当がつくしな。言いたくなったらいつでも俺に言えよな。」
この一言がなんだか嬉しかった。
放課後、彼に母のことを話した。自分だけで考え込んでいたらそのうちに気が狂ってしまいそうだったから。
「そっか、それで悩んでいたんだな。そういうときはな、そのうち帰ってくるって信じて気晴らしにぱぁっと遊ぶのが一番だぜ。」
空が暗くなってから家に帰ると、父にきつく叱られてしまった。
「おまえまでいなくなったらどうしようかと心配したんだ。」
「おおげさだよ、父さん。」
「考え過ぎなら幸せだろう。」
せわしない手つきでタバコを1本取り出して、火をつけるが早いか深々と吸い込む。吸い込みすぎたのか軽くせき込み、息を整えてから聞いてきた。
「今日は新聞を読んだか?」
「? 読んでいないけど。」
「昨日、行方不明者が日本で1万人を突破したそうだ。届け出がある分だけでのことだから、実際はもっと多いだろう。」
「そんなに……」
「テレビのニュースでは、今日の正午で2万人になったと言っていた。どうやら、加速度的に増えているようだな。」
父はまだ半分も吸っていないタバコを灰皿に押し付け、もう1本取り出した。
「私もいついなくなってしまうのか分からない。明日は会社を休んでクレジットカードを作ってもらうことにするから、おまえも講習を休みなさい。」
「どうして休まなきゃいけないのさ。」
「おまえに渡すまでは安心できないんだ。それとな、明日からは母さんが帰ってくるまで、家事を当番制にしようと思う。」
『母さんが帰ってくるまで』という言葉がいやに白々しく聞こえた。父も俺も、もはやそんなことは信じてなんかいなかった。
次の日、俺は無事に3枚のカードをもらうことが出来た。
「使うのは、私がいなくなってからにしなさい。高校生が持つには大金だからね。」
父は、『自分がいなくなる』、と盛んに口にするようになった。あらかじめ用心して欲しいと思って言っているのだろうけど、その台詞は俺を不安にさせるだけだった。
その日は2人で料理の本と材料を買いこんで、悪戦苦闘しながらもなんとか食べられるものを作り上げた。
「やってみると楽しいもんだね。」
久しぶりに笑ったような気がした。
次の日、椎名は学校にきていなかった。どうやら、昨日から休んでいるらしい。
親友なんて言葉は嫌いだが、とりあえず一番親しい友人であったことは確かだ。母のことを話したのは彼だけだし、今日は課題をしに家に行く約束もしていたのだ。
1日休んだせいでさっぱり分からなかった講習が終わると、俺は彼の家に行くことにした。
学校から歩いて行ける距離にあるマンションに母親と2人で住んでいる。父親は彼が中学生の時に交通事故で亡くしたらしい。
考えてみれば一昨日はあいつにも悪いことをした。彼の父親はもう帰ってこないのだ。行方不明であればまだ帰ってくる見込みもあるのだから、昔のあいつの方がもっと苦しい思いをしたはずなのに。
あいつは、『もう昔のことだよ』と言って笑っていた。思い返せば、あのときの笑いは寂しそうにも見えた。
考えながら歩いていたら、いつの間にか通り過ぎそうになっていた。中に入り、エレベーターで最上階まで上る。
彼の部屋の前まで行くと、中からヒステリックな叫び声が聞こえる。何を言っているのかは分からないが、椎名の母親の声だ。
声が聞こえなくなった頃を見計らって、ドアベルを鳴らす。
「どなたですか。」
インターホンから聞こえてくる声には刺があった。
名前を名乗り、用件を告げる。するといきなり、
「今いないから帰ってください。」
と怒鳴られてしまった。
「じゃあ、帰ってきたら電話するように伝えてください。」
とだけ言い残して、その場を立ち去る。
どうしていきなり怒ったのだろうか。
まさかあいつも、消えてしまったのだろうか。
そのうち、自分もいなくなってしまうのだろうか。
3
自分がいなくなったら、心配してくれる人はいるのだろうか。はじめは憶えていても、きっと忘れられてしまうのだろう。
それだけは嫌だ。
消え去ってしまうこと自体は怖くない。だが、自分が忘れられてしまうのが何よりも怖い。はじめから存在していなかったのと同じことになってしまうから。
俺は日記をつけることにした。もしも自分が神隠しにあったとしても、そのときに何か、自分がいたことを示すものを残しておきたかった。
何故だろう、俺はこの時、自分が消え去ってしまうものだと思い込んでいた。
次の日、ついに神隠しの記事が一面を飾ることになった。
千人に1人という気違いじみた数字をみても、それは誇張どころかかえって少なすぎるという印象を与えた。
どんな伝染病よりも早く、そして突然に訪れる消滅。なるべく不安を与えないように記事は書かれていたが、それがかえって恐怖を誘う。
『やがて誰もいなくなってしまうのではないか。』
見えない文字でそう書いてある。
狂気が世界をむしばみ始める。
講習の最終日は、ほとんど授業にならなかった。生徒のみならず先生までもが、事態に恐怖を抱いていた。騒ぐ生徒たちを鎮めようとしても、自分が動揺していてはそれもかなうはずのないことだった。
「学校にきていれば、まだたくさん人がいるから安心できるんだよ。」
「単身赴任している親父に電話をかけても、さっぱり通じないんだ。」
「講習中は静かにしなさい。」
「でも、1人いなくなるたびに怖くなるから学校に来たくないって、誰か言ってたぜ。」
「兄貴がバイトをさぼって帰省してきたんだ。 アパートに1人でいると不安なんだってさ。 」
「三石も椎名も、戻ってこないのかなあ。」
「神隠しじゃないかも知れないじゃないか。予備校にでも行っているだけかも知れないだろ。」
「でも、三石はもうすぐ2週間だろ。」
「でもさ、椎名がいなくなったら俺世界史トップになれるかも知れないな。」
「おまえクラスメイトのこと心配じゃないのかよ、自分のことばっかり考えやがって。」
「大学に入るにはみんなライバルじゃないか。減るんなら得するじゃん。」
「頼むから静かにしてくれ。私も家にいる妻と子が心配なんだ。」
もう、誰にも止めることはできなかった。
講習も終わってしまったので、今日から1人きりになってしまう。校則でバイトが禁止されていなければ働こうかとも思ったが、万一見つかれば大変なことになるからそれはできなかった。
でも、家でじっとしているのは嫌だ。
目的もなく、ただ町中をぶらつく。やはり1人でいるのが嫌だという人が多いのか、平日なのに人通りが日曜日なみにある。
何日かはそうして過ごしたが、足は痛くなるし、外食では金もすぐになくなってしまい、家でテレビを見て過ごすようになった。
ワイドショーなどではこの事件をかなり大きく取り扱っていたが、役立つ情報は何一つなかった。
世界が狂い始める。
マスコミは神隠しについては、一切無視することに決めたようだった。今までの報道が嘘のようにピタリと止んでしまい、それはかえって不気味だった。情報が入ってこない分、不安が高まっていく。
新聞、雑誌は急速にぺージ数を減じていく。町を歩く人の数は日に日に減っていく。周囲の人間が1人ずつ、あるいは何人かいなくなってしまう。
マスコミが沈黙していても、誰も何も言わなくても、自分の周りのあらゆる状況が、事態は悪化し続けていると教えてくれる。
買物に出かけるときにシャッターが閉まったままの店を見るたびに、重い空気がのしかかってくるような感覚を覚える。帰り道にどこかの家の塀にスプレーで大きく『助けて、消えたくない』と書いてあるのを見ると、大声で叫び出したい気分になってしまう。
父が毎晩のごとく酔って帰ってくるようになった。嫌なことを忘れるために自身を痛めつけている様を見ると悲しくなる。
「父さん、食事は当番制にするんじゃなかったの?」
「そうだったか、母さん。」
「母さんじゃないよ、俺だよ。」
父の重い体を引きずり、ベッドに乗せる。
父は次の朝には痛む胃を押さえながら謝るが、帰ってくるときには再びしこたま飲んでくる。苦しむと分かっていてどうしてそんなことをするのか、気が知れない。飲んで帰ってくるときに俺のことを必ず母と勘違いするのも許せなかった。呼ぶ言葉が口をついて出るたびに、いなくなってしまったままの母を思い出してしまう。
いますぐこの場から消え去って、狂気から逃れたい。こんな状態が続いたら、俺まで気が狂ってしまいそうだった。
4
父がいなくなった。久しぶりに早く帰ってきた次の日のことだった。
「珍しいね、早く帰ってくるなんて。」
「上司がいなくなってしまったから、つきあう必要がなくなったんだよ。」
「……いたらまだ飲むつもりだったの?」
「上には逆らえないんだ、おまえも働けば分かるよ。」
「じゃあこれからは早く帰ってこれるの?」
「人がいない分仕事が残っているから、しばらくは残業だよ。もう会社の同僚も半分以上いなくなってしまったんだ。空いたままの席を見るのは嫌なものだよ。」
何日も苦しめられてきた孤独感から解放されるのかと期待したのだが、なかなかそうもうまくはいかないものらしい。
「これからはなるべく早く帰ってきて、あまり心配はかけないようにするよ。神隠しも大変だが、飲み過ぎや過労で倒れても困るしな。今いなくなるわけにはいかないんだ。」
父の口調は、どちらかというと自分に話しかけるような感じだった。
元通りの父に戻ってくれそうだと喜んだのに。その矢先に、どうして……
父の部屋に入るとそこには誰もいなかった。掛布団が少し盛り上がっていて、枕元には電気がついたままのスタンドと読みかけの本が置いてある。
トイレにはいなかったし、もちろん他の部屋にもいなかった。背広はクローゼットに全てかかったままだったし、靴もなくなっていない。外出したとは考えられなかった。
会社に行く時間を過ぎてもリビングにも来ないし、もう一度探したけれども見つからなかった。
すっかり冷めてしまった朝食を食べ終わり、食器を洗おうと立ち上がったとき、電話のベルが鳴った。
「はい、林原ですが。 」
父の会社からの呼び出しだった。
会議に出席するはずだった父が来ないので、電話をかけにきたのだと言う。父がいないことを告げると、せめて書類だけでも欲しいから持ってきて欲しいと頼まれたので、机の上にあった封筒を持って届けに行くことにした。
久しぶりに外出すると、町並みはすっかり変わっていた。ほとんどの店がシャッターを下ろしていて、人気もなく不気味であった。
バスも休便が増えてしまい、自転車で駅まで行く羽目になった。地下鉄でさえも晋段の半分くらいしか走っておらず、そのせいですっかり遅くなってしまった。
書類を渡した後、帰りの地下鉄の中でぼんやりと考え事をしていて、つい乗り過ごしてしまった。
父がいなくなってから何日経ったことだろう。1ヶ月分以上のレトルト食品を買い込んだ俺は、外出もせず家で勉強をしていた。外を歩けば、人がいなくなっているという現実を見つめることになってしまう。テレビをつけても何も映らない。ゲームもとっくに飽きてしまった。
勉強をしていれば、世の中が正常だという幻想を抱くことができる。勤勉な少年のふりをすることができる。大学受験も、その知識を使う機会も、もはや有りはしないのに。
日記は毎日書いていたが、このような生活で出来事などあるはずもなく、同じ言葉をただ書き連ねているだけであった。
『〇月●日。俺は、今日もまだ存在している。』
無意味に時が過ぎていく。
5
不意にだれかに会いたくなった。誰でもいい。何か話をしたかった。
俺は家を出て、自転車を漕ぎ始めた。額に当たる夜風が気持ちいい。嫌なことを忘れてしまえそうだ。
商店街にはシャッターが開きっぱなしの店も多く、まるで店そのものが生き物であるかのようにこうこうと明りがともっている。
店のドアを片っ端から開けていく。コンビニのドアを開けると、中から生ゴミを電子レンジで暖めたようなすさまじい腐臭がただよってきた。店内に残った弁当が、液状になってケースいっぱいに広がっている。何事もなかったかのように流れるエンドレスのテープが空しく店内に響く。
やはり誰もいなかった。
再び自転車を漕ぎ始める。
弱々しい街灯と自転車のライトを頼りに駅まで向かう。
たまに明りがついた家を見かけると、何も考えずにドアベルを鳴らしてみる。しつこく何度も鳴らし続け、返事がないのが分かると、また自転車を走らせる。
俺はただ一人、取り残されてしまったのだろうか。なぜ俺は消え去ってしまうことができなかったのだろうか。
「どうして誰もいないんだぁあ! どうして俺だけがここにいるんだあぁ……」
大声で泣き叫びながら、家までペダルをこぎ続ける。涙で目の前がかすんでよく見えないせいか何度か転び、そのたびにこれが悪夢ではないことを実感する。
家の前に人影がある。
そんなばかな。幻ではないのか。
「ああ、まだ残っている人がいたんだ……」
人影はつぶやく。
あわててブレーキをかけて、またもや自転車から転げ落ちた。
起き上がろうとしてついた右手に、温かいものが触れる。
「まだいたんだ!」
かすれて声はほとんど出なかった。
6
「皆口優子です。」
人を探すために一日中歩き回っていて、何も食べていなかったという彼女は、レトルトのカレーライスを平らげた後でようやく言葉を口にした。
「はぁ、ほんとにもう、誰もいなくなったかと思っていたわ。」
「俺もそう思っていたよ。初めに見たときには、『ああ、とうとう幻覚まで見えてきた、俺ももうおしまいか』なんて考えたよ。」
「それ傑作だわ。」
口元を押さえて小さく笑う彼女がとても可愛かった。
高校三年生の彼女は本当によくしゃべる娘で、とても歳上には見えなかった。身振り手振りを加えて話す様子を見ながら、声を黙って聞いていた。
彼女の声はとても心地よかった。
「ねえ、ちょっと、聞いているの?」
「え、あ、ああ。」
「あたしだって誰かの声を聞きたくてここに来たんだから、あんたも何かしゃべりなさいよ。」
久しぶりに心の底から笑うことのできた夜だった。いつまでも話をしていたかった。
「もうかなり遅くなっちゃったね、送ろうか?」
「どこに?」
「どこにって、家に決まっているじゃないか。」
「誰もいない家にわざわざ? 泊めてよ。」
えっ?
「もうかなり足も痛いし、ここから帰るとしたら歩いて一時間はかかるわ。そんなことをする気力はないわよ。」
体中の血液が顔に集結していく。
「お、俺だって一応男なんだし、その、どうなるか分からないから、やっぱり……」
「顔を真っ赤にしてそういうことを言う人にそんな度胸はないわよ。」
「え? いまなんて言ったの?」
「なんでもない。でもあたし柔道黒帯だから、変な気を起こしたら痛い目をみるよ。」
今日は久しぶりに日記に書くことがいっぱいあった。
新しいぺージにペンを踊らせる。次々と言葉がつむぎ出され、まるで自分以外の誰かが動かしているのではないかと思えるほどなめらかにペンが動いていく。そうして2ページくらい皆口さんのことを書き連ねてから、これでは日記にならないではないかと思い直し、書き直そうとする。
コン、コン。
どきり。
「ごめんなさい、まだ起きてる?」
慌てて日記をしまう。
「う、うん。」
ドアの向こうの彼女に聞こえるかと思えるほど強く、心臓が高鳴る。返事の声がうわずっていたことにも気付かない。
「開けてもいい?」
「いいけど、どうしたの?」
かちゃり。
「眠れなくて……」
彼女は、俺がまだ着ていなかったフリーサイズのパジャマを着ていた。泣きだしそうな顔をして、枕を抱きしめている。
「笑わないで聞いてよ。朝まで……」
この息苦しくなるほどに早く、強いドキドキは彼女に聞こえてしまうだろうか。聞こえていたらどう思うだろう。
「手を握っていて欲しいの。」
返事をすることができなかった。目を大きく見開き、彼女を見つめていた。顔が朱に染まっていく。
「変な娘だって思ったでしょう? でも、離れてしまったらまた独りになってしまいそうで怖いの。触れていればそこにいるってわかるでしょう。」
客間に行き、彼女は再び布団にはいる。俺はその横に座り、右手を両手で握りしめる。
「それじゃ眠れないでしょ?」
「いいんだ、あまり眠くないから。」
「ごめんね、変なこと頼んじゃって。」
「構わないよ。」
「やっぱり、『誰か』がいるっていいね。1人でいたときは、次の日にまた自分しかいないっていうことが怖くて、早くいなくなってしまえばいいって思っていたもの。でも今日は、明日が楽しみになるわ。」
「うん、俺もそう思うよ。」
「お休みなさい。明日また、会えるといいね。」
「そうだね、お休み。」
やがて彼女は寝息を立て始める。
明日が楽しみになる、か。このままこうしていられるのなら、確かに楽しいことだろう。俺も、彼女を1人、残したくはない。独りきりにはもう二度となりたくはない。
彼女はどうも、そのうち元通りの社会に戻ると信じている節があったが、俺はどうしてもそうは思えなかった。2人一緒に消えてしまうのが、一番幸せなように思えた。
7
目を覚ますと、優子は消えていた。スニーカーとブレザーの制服を残して。
何度名前を呼んだことだろう、しかし帰ってくるのはこだまばかりだった。
彼女に惚れてしまったせいなのか、久しぶりに出会った人間に情が移ったせいなのかは分からない。俺は『2人』を知ってしまった。『人』の字のように、俺は彼女を支えるつもりでいて、支えられてもいたのだ。
どうして彼女はいなくなってしまったのか。
彼女の最後の言葉が頭の中で何度もリフレインする。まぶたの奥にはそのときの笑顔が鮮明に張り付いている。
不意にその言葉が、父の最後の言葉にとって変わる。
「今いなくなるわけにはいかないんだ。」
「明日また、会えるといいね。」
言葉も声も違ったけれど、『想い』は同じだった。消えてしまいたくはないという想い。
俺はずっと、いなくなってしまいたいと思っていた。もしもそのせいで今ここにいるのだとすれば、もはや手遅れだった。
「ゆうこ!」
俺はあらんかぎりの力を振り絞って叫んだ。声と共に、俺の自我も霧散していく。
俺は『独り』。命尽きるまで、彼女の服を抱きしめながら笑っていた。
[最終更新日 2015.7.15]